Minato's memo

旅・エンタメ・日々の覚書

2011.3.11

あの日、私は研修で目白にいました。

研修中に発生した地震、当初は「いつもより長いな」という印象がだんだん強さを増し、窓ガラスが割れるのでは?という揺れに初めて「机の下に避難」するという事を体験しました。地震が収まった後、研修先のグラウンドに出ての一時避難。携帯メールと電話は当然繋がらず、ワンセグが見られる携帯とネットの状況で東北の方で大変な事が起こった事を知りました。

 あの日、天気は曇り。少しずつ雨が落ちてきて3月というまだ寒さの残る外の気温で雨が降り、緊急用の毛布まで配られ、夕闇が迫る中、外にいても揺れが目視できるような余震まで起こり、心細さが増してきました。

 帰宅の判断が下り、私は山手線で2駅先の大塚まで歩き、そこからバスに乗って帰るという帰路を選びました。そこでは途中で止まった埼京線から人を降ろすという光景を目撃。繁華街はまだ営業を続けていました。

 あの日、私は幸い帰路に恵まれたため、午後6時には自宅に戻ることができました。自宅は本が散乱してましたが倒れているものや破損しているものはありませんでした。PCの方は大丈夫でしたので自宅で今回の地震の全容、そして東京もまた鉄道が全てストップし、帰宅が困難になっている様子がツイッターやブログで様子で見ることになります。

 関係では1名が福島の方で避難生活に入られています。

 恐らくリアルに報道されたのは11日と12日だけで、後は報道についてはセンセーショナルさが増して行ったと感じています。当時の東京の日常。

 3/12朝にスーパーマーケットに行った時はまだ品物は豊富にあり、一人暮らしで足りるだけの食材を購入。水溶きで焼けるパンケーキ、水、パンなどです。

原発事故の影響でまずは停電に陥り、商品の供給と石油がストップしましたが私の生活の中では石油は不要でしたので純粋には食料だけが問題でしたが、コンビニなどは朝早くいけばそこそこありましたので雑食の私は特に不自由はありませんでした。電池は純粋に欠品していましたが、水や食品は「百貨店」に行けばありました。「欠品」していたのは安売りをしていたスーパーマーケットです。

 その騒動も1ヶ月後には収束しますが、放射能の問題は重い枷になっているように感じます。

 1年後、東京は何も変わらずいます。驚くほど何も変わってません。それが正直辛い、今の私の感想です。

「絆」を問いながら情報は分断したままでその度心が折れています。東京は人口が多いせいか、ルールが大事で、我慢強いなと感じる事が多いですが人を思いやる「感受性」が摩耗しているだけなのかも知れません。

 次の1年、そして今後は「変わる」ではなく「変える」という意志の中で生きて行きたい。日本は過去東北の人にはさんざんひどい事をしてきています。いや、私のルーツである新潟や長野など、雪の深い地域の人の忍耐強さに甘えての理不尽な仕打ちが多い。その事にこの1年で気づかされた以上、考え方を変える事が大事なのかなと改めて感じています。

 記憶を風化させない、という点では阪神大震災時前日に神戸に居て間一髪で難を逃れた体験をしていても私の記憶から遠くなりました。前へ進もうと思うと何かを諦めなければいけないし、覚悟や割り切りも必要なんでしょう。個人の資質の問題もありますが、前へ歩みを進めてゆきましょう。