Minato's memo

旅・エンタメ・日々の覚書

V6とのsince1995

V6解散発表1週間、一番きつかったのは月曜日でした。幸い(?)私は職場でV6ファンであることを公表していないので、詮索をされることはない&テレワーク半分なので同僚と話す機会がない&そもそも・・・クリエイター集団なので芸能の話題がもともとのぼらない職場(これ、多分職業的な特性だと思います。一応、起案する側なので)というのもあり、仕事していれば気が紛れるかなと思っていたら月曜日はどんよりでしたw重い仕事していたらミスするところでした。でも、日が経つにつれて、徐々に普通になってきていて、日にち薬だな〜と。年齢的に「四苦八苦」というものを体感することが多くなってきますが、それを上回る精神を安定させる力ってすごいなと思いました。メンタル、そんなに強い方ではないし、どちらかというと悪い記憶を残しやすいのでそんなにいい性質ではないのですが、今回は戻ろうという力の方を強く感じました。

このブログは2000年からなのでファンになったきっかけ話として過去のことをそんなに書いてないなと。ウルトラマンティガ絡みで時々出てはきてるし、知恵熱出した初トニコンの話も書いたことがあるのですが、そもそも自分がこんなに好き勝手にいろんなことが自由にできるようになった年として「1995年」というものがあることに気づきました。先週、「遅れてきた青春」という書き方をしましたけど、私は家庭の事情で義務教育年齢からずーっとではないですが、主婦業もしていたし、今でいうヤングケアラーでもありました。10代前半から約10年間、世間一般でいう一番輝かしい時期、一番いろんなことを吸収できる時期、全てを自分の時間としては使えませんでした。兄も妹もいたので一身に何かを背負うというほどではなかったし、自宅介護が必要だったことはほとんどないのでそこまでの悲壮感はなかったですが、それなりに背負っていたものがあったのは自覚しています。それが全て解消されたのが前年の1994年でした。で、フィギュアスケートを自由に見に行けるようにしたいのと、絵を描く仕事をしたいのとでシフト制だった当時の仕事を辞めて土日休みになる仕事に転職したのが1995年2月。そのひと月前が阪神大震災で前日まで神戸にいた話に繋がり、その遠征こそが泊まりでイベント(フィギュアスケート)を見に行くという「遅れてきた青春」鉄砲玉人生のスタートでした。それまでは泊まりでどこかに行くということ自体がかなり大変で、日帰りも制限していて、アルフィーフィギュアスケートも遠征まではできなかった理由はそこにあります。何の制限もなく、自由にいろんなことができるようになったことが他の世界に目を向けることになり、そのタイミングでV6がデビューし、そのうちの一人、長野くんがウルトラマンに出るというニュースを見て「興味を持った」という意識の変化に繋がります。ちなみにW杯バレーの時は積極的にチャンネルを変えてました(懺悔)どこかでタイミングが違えば、V6にたどり着かなかったのかなと、今更ながらに自覚し、まさに遅れてきた青春だったんだなと思い至ってます。創作へ向かう力が強くなりましたしね。結局仕事も初志貫徹し、ウェブに手を出してみたりしての現在になります。

今年に入って自分自身新しいことにチャレンジしたくなって実は少しエンタメ系に距離を置いていた矢先での今回の発表で1995年という年が実は自分にとっても大きな変化があった年だったことに気づき、1995年からの26年が本当にV6との歩みとリンクしていたこと、コロナ禍がきっかけではありましたけど自分自身が何か新しいこと、と思いはじめていたのは予感だったのかな。自分の人生にV6を重ねるのもおこがましいですけど、新しいことをしていきたいという気持ちは一緒だなと自覚した次第です。

解散の発表後、ネット記事の内容に心痛むものもありますけど、それを見越した彼らの動画や三宅健くんの「V6をきれいな状態で宝箱にしまえる」という表現の美しさに違う形でエンタメを生きるという新しい世界への挑戦なんだなと思えるようになりました。11月1日は単なるピリオド「.」を打つ日、次の展開、遠くなるのかもですが応援し続けようと改めて思いましたし、自分自身に対しても少し頑張ろうと思いました。

ALFEEファンになった「1983年〜1984年」という年にも強烈な意味があるんだなと、このエントリーを書き起こして自覚しました。大人だった彼らには憧れと救いを求めていたんですね。化学反応みたいです。
ALFEEに関しては少しずつ「覚悟」を持つようにしています。永遠ではないから・・・。「ファミリーヒストリー」で突きつけられましたし・・・。

この記事の企画、幻になってしまうかは三宅健くん次第です。ラジオ公式メールアドレスに送っています!(本当)みたい!!